今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んできた冷たい風に燈火(ともしび)はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄(ひょう)として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯(ただ)これ一瞬の事で前後はなかった。
屋外(そと)は雨の音、ザアッ。
こんにちは。梅雨真っ只中ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。
前回の記事で予告した通り、今回から「梅雨におすすめな小説特集」を投稿していこうと思います。
第一弾として本日ご紹介するのは、幸田露伴(1867年~1947年)の「観画談」です。
実はこの作品、秋が舞台です。なので「梅雨」ではなく「秋雨」になるのですが、数ある雨の描写の中でブログ主は一等、この作品の描写が好きなのです。まあ、停滞前線が北上するか南下するかの違いって事で何卒ご容赦を(笑)。
目次
- 「観画談」キーワード
- 登場人物
- あらすじ
- 味わいポイント
幽玄の世界へ
「観画談」キーワード
苦学生 神経衰弱
山間の寺 渓谷 滝 豪雨 大江の画
呼ばれる
登場人物
- 晩成先生・・・貧家の生まれであるが勉学に励み、働きながら大学まで進む。ゆえに同窓より5,6歳も年上となったために「大器晩成先生」とあだ名される。苦学が祟り、神経衰弱の気味が出てきたので休学して漫遊の旅に出る。
- 和尚・・・晩成先生が辿りついた或る山寺の住職。
- 蔵海・・・山寺の若僧。豪雨で渓谷の川が増水するなか、和尚に命じられ晩成先生を安全な草庵まで導く。
- 老僧・・・晩成先生が避難した草庵の僧。耳が聞こえない。
あらすじ
ずっと前の事であるが、或人から気味合(きみあい)の妙な談(はなし)を聴いたことがあるー。
その男は貧家に生まれたが、生真面目かつ勤勉だったため、自活しながら勉学を続けて大学2年まで漕ぎ着けた。同窓より5,6歳は年上となってしまったため「大器晩成先生」と呼ばれていた。しかし、苦学が祟ったのか神経衰弱気味になってしまい、やむなく休学。贅沢気のない僻地を転々とする漫遊の旅に出る。
旅の途中、ある男に勧められて奥州の山寺に向かう。降りしきる雨のなか、巨岩が続き白泡が立つ深い渓谷を歩き通して辿りついた山寺。迎えた住職は快く晩成先生の逗留を認める。
しかしその晩、豪雨の音に眠れないでいると、弟子の蔵海がやって来る。「夜前からの雨で渓(たに)が俄(にわか)に膨れてまいりました。」
晩成先生は蔵海の案内で草庵へ避難することになるがー。
味わいポイント
幽玄の世界へ
浮世離れした、幽玄ー。
そんな言葉がぴったりくる小説です。
主人公の男は小学校(戦前なので旧制でしょうが)を出てすぐに経済的自活を余儀なくされる境遇でした。つまり早くから世間の垢にまみれ、額にも心にも皺を刻んだ人物として紹介されています。
それでも自活しながら勉学を続け、大学2年まで進み、尊敬の意味も込めて年下の同窓たちから「大器晩成先生」と呼ばれるまでになります。
そんな晩成先生が神経衰弱から休学せざるを得なくなるところから、この物語は始まります。
旅の途中で勧められた奥州の山寺に向かう晩成先生。
路はかなりの大きさの渓に沿って上っていくのであった。両岸の山は或時は右が遠ざかったり左が遠ざかったり、また或時は右が迫って来たり左が迫って来たり、時に両方が迫って来て、一水遥(はるか)に遠く巨巌の下に白泡を立てて沸(たぎ)り流れたりした。(52ページ)
恐ろしい大きな高い巌(いわ)が前途に横たわっていて、あのさきへ行くのか知らんと疑われるような覚束ない路を辿って行くと、辛うじてその岩岨(そば)に線(いと)のような道が付いていて、是非もなく蟻の如く蟹の如くなりながら通り過ぎてはホッと息を吐くこともあって、
(53ページ)
渓の上手の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯巒(ほうらん)を蝕み、巌を蝕み、松を蝕み、忽ちもう対岸の高い巌壁をも絵心に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下がって来ると、堪らない、ザアッという本降りになって、
(54ページ)
この、山寺への路からして「幽玄」の世界への序章となっているのです。渓谷沿いの路を分け入って行けば行くほど、晩成先生が浮世から離れていくような心持がしてきます。
寺で迎えてくれたのは40過ぎの飾り気のない和尚と弟子の若い僧。
和尚は快く逗留を認め、晩成先生は一室を与えられますが、降り続く豪雨のなかで眠りにつけません。それは、単に雨の音の所為ばかりではなく、これから彼の身に変わったことが起こる予感じみたものだったのかも知れません。
自分が何だか今までの自分でない、別の世界の別の自分になったような気がして、まさかに死んで別の天地に入ったのだとは思わないが、どうも今までに覚えぬ妙な気がした。しかし、何の、下らないと思い返して眠ろうとしたけれども、やはり眠に落ちない。雨は恐ろしく降っている。
(63ページ)
自分の生涯の中の或日に雨が降っているのではなくて、常住不断の雨が降り通している中に自分の短い生涯がちょっと挿まれているものででもあるように降っている。(63ページ)
住持も若僧もいないように静かだ。イヤ全くわが五官の領する世界にはいないのだ。世界という者が広大なものだと日頃思っていたが、今はどうだ、世界にただこれ
ザアッ
(64ページ)
やっと眠りに落ちた晩成先生のもとに、不意に蔵海がやって来て言うには、渓川が急に膨らんできたのですぐに草庵へ避難しろ、とのこと。和尚に見送られ豪雨の闇夜を、蔵海の提灯一つを頼りに寺を出ます。
蔵海の導きで無事、草庵にたどり着いた晩成先生。寺へ引き返す蔵海と入れ違いに彼を迎え入れたのは一人の老僧。
この老僧は起きていたのか眠っていたのか、夜中真暗な中に坐禅ということをしていたのか、坐りながら眠っていたのか、眠りながら坐っていたのか、今夜だけ偶然にこういう態であったのか、始終こうなのか、と怪み惑うた。
(74ページ)
突然に押しかけたのに起きていたかのようなその様子、また耳が不自由なはずなのに「□□さん」と晩成先生に呼びかけ名前を知っていた様子は、何とも不思議な人物です。
その老僧から草庵の奥の間を与えられた晩成先生。この草庵の一間で、彼の身に起こった奇妙な事。それが彼の道を大きく変えます。
あてがわれた一間に掛かっていた古い画。中国の大江に臨む都の様子を描いたその画に、晩成先生は惹きつけられます。綿密に描かれた山河・楼閣・人々・・。特に気になったのは、描かれた船頭。燈火を近づけて見入っていた晩成先生に起きた事はー
オーイッと呼ばわって船頭さんは大きく口をあいた。晩成先生は莞爾(かんじ)とした。今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んできた冷たい風に燈火(ともしび)はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄(ひょう)として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯(ただ)これ一瞬の事で前後はなかった。
屋外(そと)は雨の音、ザアッ。
(80ページ)
その先、晩成先生がどうなったかは是非本編でご確認を。
山深い渓谷の路を分け入り、豪雨の中で予感めいたものと対峙し、増水から逃れた草庵で摩訶不思議な老僧と出会い、そして一幅の画に“呼びかけられた”晩成先生の行く先。
一つ言えるのは、話が進むほどに晩成先生が入り込んでいったのは、まさしく“幽玄の世界”であったこと。そして、浮世の人間からすれば晩成先生のその後も含めて、それは「気味合の妙な談」に帰結するべきことー。
ということで「梅雨におすすめな小説特集」第一弾として、幸田露伴の「観画談」をご紹介しました。篠突く梅雨の夜のお供に、是非手に取ってみてはいかがでしょうか。そして幽玄の世界を覗いてみて下さい。
次回も「梅雨におすすめな小説特集」を続けたいと思います。それでは。
shosetsu-eiga-alacarte.hatenablog.jp
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#読了#文豪の探偵小説
— josie march (@josiemarch2) 2020年6月15日
9人の文豪の探偵小説を集めたアンソロジー
謎解きを期待してたけど、実際は犯罪・幻想・怪奇小説が殆ど。もっと広義の『ミステリー小説集』という感じ。
日本の推理小説黎明期は多様だった、と捉えればいいのかな。
文豪たちのマイナーな作品を横断する楽しみもあったし。 pic.twitter.com/gOiYbq0tGk