小説-気分で選ぶ
今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んできた冷たい風に燈火(ともしび)はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄(ひょう)として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯(ただ)これ一瞬の事で前後はなかった。 屋外…
こいつ、おかしい。すごい変わってる。 でも、どこがだろう。何がだろう。 そういえば、こいつとはここまで、一度も鍔迫り合いになっていない。 もう一度、何本か続けて打ち込んでみる。 メンメン、引きゴテ、メン、引きドウ、コテメンー。 (文春文庫「武士…
「この寮で一カ月以上も暮らしてるとさ、受験勉強の仕方を三タイプに分類できるってのが見えてくるな」 「知力でやる奴、気力でやる奴、体力でやる奴、だよ」 「あのさ、僕はどのタイプに入るわけ?」 「アキラの場合は、みんなと違って指向性が見えにくいん…
相庭陽子さん。美しい人、飛切りのおしゃれです。軟派の中の女王です。級(クラス)でのニックネームはクレオパトラ、 佐伯一枝さん。これは硬派の大将、まさに全級一の模範生です。ニックネームはロボット、すなわち人造人間ですって、 弓削牧子。これは個…
それにしてもぼくの大すきなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは会えないと知りながら、ぼくは今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房はむらさきに色付いて美しく粉をふきますけれど、それを受けた大理石のよう…
「ぜひこの一足をあなたにはいてもらいたい、そう思って仕上げた。しかし、主人が上物は扱わせてくれないので、自費の材料ゆえ粗末で恥ずかしい。かなりなくせのある木目で、今日のあれとは比べものにならない。気をわるくされやしないかと心配だが、くせが…
まいは、小さいころからおばあちゃんが大好きだった。 実際、「おばあちゃん、大好き」と、事あるごとに連発した。 そういうとき、おばあちゃんはいつも微笑んで、 「アイ・ノウ」 知っていますよ、と応えるのだった。 (新潮社「 西の魔女が死んだ」13ペ…
「カードをうらがえして確認したまえ」 彼が言った。 カードのうらには、風車小屋の絵が小さくえがかれている。 ぼくは目のまえの人を見あげた。 名探偵ロイズ。彼とのであいは、そのようにおこった。 ( 講談社文庫「銃とチョコレート」乙一・著 63ページ…
チョコレートを食べなくても、栄養に欠けるわけではない。死ぬわけでもない。それでも口にするのはおいしいからにほかならない。音楽や書物に心遊ばせたり、一杯の紅茶に気持ちをなごませるように、ひとは愉しみをもとめてチョコレート菓子を舌にのせるのだ…
一塊の鬼火が崇徳院の膝元から燃え上って、山も谷も真昼のように明るくなった。その光の中で、よくよく院のご様子を拝見すると、お顔は朱を注いだように赤く、雑草の様な髪は乱れて膝までかかり、白眼をつり上げて、熱い息を荒々しく吐き出すご様子がいかに…
まめまきの おとを ききながら、おにたは おもいました。 (にんげんって おかしいな。 おには わるいって、きめているんだから。 おににも、 いろいろ あるのにな。 にんげんも、 いろいろ いるみたいに) ( ポプラ社「おにたのぼうし」あまんきみこ・著 …
ほら穴の内側は、一面に青かった。この世のどこにもないほどに。それは青空よりもはるかにふかく、はるかに美しい青さであった。いわば紺青の空色に染めたガラスを透してそとの光がさしこんでくるような青さであった。( 岩波文庫「水晶」シュティフター・著…
「当然です。諜者は功を語らず。諜報員の作戦が白日の下に晒されるのは、正体がばれたときです。それは、作戦が失敗したことを意味します。成功した作戦は歴史の闇のなかへと消えていくだけです」 (光文社「十二月八日の幻影」直原冬明・著 42頁より) ど…
なぜか、おじさんの家へ行くときに、森の木々が葉をつけていた記憶がない。あの森をぬけていくときは、いつも寒くて、霜がおりているか、雪がふっていたような気がする。葉といえば、地面の上でくさりかけている枯れ葉以外、見たおぼえがないのだ。( 理論社…
母の懐には甘い乳房の匂が暖かく籠っていた。 ・・・・・・・・・ が、依然として月の光と波の音とが身に沁み渡る。新内の流しが聞こえる。二人の頬には未だに涙が止めどなく流れている。 私はふと眼を覚ました。 ( 新潮文庫「刺青・秘密」谷崎潤一郎 著 2…
フィンランドのかもめはどことなく、のびのびとふてぶてしく、また ひょっこりしていた。 このひょっこり具合が、自分と似ているような気がしてきた。 「かもめ・・・・・・、 かもめ食堂・・・・・・、 でいきますか」 ( 幻冬舎文庫「 かもめ食堂」群よう…
「<ティンカー・リンカー>のピーチパイ!白桃を使ってて、とってもとってもおいしいの!」 そしてそのまま、小佐内さんの笑顔は凍りつく。 蒸し暑い夏の日、この瞬間ぼくと小佐内さんの間にしんと冷えた空気が下りてきたのを、ぼくは確かに感じていた。 (…
するとどこかで、ふしぎな声が、 銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がしたと思うといきなり眼の前が、 ぱっと明るくなって、 まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、 そら中に沈めたという工合 ( 新潮文庫「新編銀河鉄道の夜」宮沢賢治・…
俯いた女は折り目正しく頭を下げた。帯締めに下げた鈴がチリンと鳴った。 「お悔やみを申し上げます」 女ははっきりとそう言った。 ( 角川書店「営繕かるかや怪異譚」小野不由美・著 108頁より) ブログ主の住む関東は、なかなか梅雨が明けない日々です…
「そういうときこそ気をつけないと」フィルポットは言った。 「いわゆる死の予兆(フェイ)というやつですよ。」 (ハヤカワ文庫「終わりなき夜に生れつく」アガサ・クリスティー著 239頁より) 読み終えた時の第一声、「なんて恐ろしい小説だろう。」こ…
「信じてください。ぼくは、きみがこれを読む八十年もあとの時代に実在し、生きているのですー。きみと恋に落ちたことを、心の底から信じながら。」 (ハヤカワ文庫「ゲイルズバーグの春を愛す」ジャック・フィニイ 著 207頁より) 春本番になって、寒の戻り…
「わたし、スタンダードシフォンと、コーヒー」 まずはシフォンで肩慣らしか、と思ったが、 「・・・・・・とミルフィーユとパンナコッタとストロベリーショート」 いきなり全開ですか。 ( 創元推理文庫「 春期限定いちごタルト事件」米澤穂信 著 155頁より…
「でも、人生は祝福するべきものだわ。そのすべてを。つまり、その最後さえも。」 わたしは、ホットプレートに載ったポットを手にとって、ふたつのグラスにホットチョコレートを注いだ。 ( 角川書店「ショコラ」ジョアン・ハリス著 231頁より) バレンタイ…
「寒くなったな、夜天(そら)が落ちてきそうだ。」 「夜天(そら)が、星ぢゃないのか。」銅貨が訊き返すと、 「夜天だよ。今にも留め金が外れて天井板のように落ちてきそうなほど凍ってる。」 ( 河出書房新社「三日月少年漂流記」長野まゆみ・著 74頁よ…
「もしもなっちゃんが「早く帰りたい」と言うのならせめて途中で『ひかり』に乗り換えよう、と携帯電話で時刻表を調べかけた、そのときー。 「ねえ、パパ・・・・・・ サンタさん」 なっちゃんが言った。 「はあ?」 「トナカイさんも、ホームにいるよ」 ( …
「じゃ行って来い、ピョートル。いったん忠誠を誓ったら、その人に忠勤を励むんだぞ。上官の言うことをよく守れ。上官の機嫌をとるじゃないぞ。勤務の上で出しゃばるな、また勤務をずるけるな。それからこのことわざを覚えとけ -おろしたてから着物を惜しめ…
夢を見ていたに違いないと思い始めましたが、壁に下がった呼び鈴を見ると、まだ揺れているではありませんか。 (作品社「幽霊」イーディス・ウォートン著 145頁より) ハロウィーンからクリスマスあたりの、夜が長くなる季節になると繰り返し読みたくなる…
「それでは皆さん、東天祭の始まりです!」生徒会長がそう宣言した瞬間に文化祭が開幕する。⋯八百人分のエネルギーが一気に解放され、どよめきや足音へ変わっていく。 ( 東京創元社文庫「文化祭オクロック」 竹内真・著 4頁) ご紹介する小説は、竹内真さん…
掌に覆われた顔が暗くなり、指の隙間から眼球がのぞいていた。私は驚いて彼の仕草を見つめた。「狐の面だよ」彼は言った。 (新潮社「きつねのはなし」森見登美彦・著30頁より) ご紹介する小説は、森見登美彦さんの「きつねのはなし」です。 目次 「きつ…
ぼくの頭の中でふいにピアノの音が踊り出した。右手だけの力強いサマータイム! ( 偕成社「四季のピアニストたち[上]サマータイム」佐藤多佳子・著 70頁より) 紹介するのは佐藤多佳子さんの小説「 サマータイム」です。 目次 「 サマータイム」キーワー…